(株)アネ゙デパミ゙のブログ

くだらないことをさらにくだらなく

【その他】人生という一杯のかけうどん

こんにちは。アネ゙デパミ゙(@ane_depami)です。

 

復職して1か月が経ちました。


訳あって仕事をお休みしていた僕ですが、1月の頭から復職し、何とか1か月を乗り切ることが出来ました。仕事をしていなかった期間のせいでジリ貧ではありますが、何とか毎日生き延びています。

 

 

 寿命が80くらいまでだとして、残りおよそ50年。いささか人生長すぎるような気もしますが、医療の発展により、もっともっと平均寿命は延びるでしょう。
果たして、この長い長い人生の中で、休職という「立ち止まっていた時間」はそんなに気にするものでしょうか?


 もっと言うと、そもそもなぜ立ち止まってはいけないと思い込んでいたのか。それほど自分を追いつめてしまっていたのかもしれませんが、そこは自分の未熟さともいえるでしょう。
 今思うと、数か月前、いやもっと前から、僕の生活は様々な"Must"で溢れ返っていました。「勉強しなきゃ」「仕事しなきゃ」はもちろんのこと、休日でさえも「休まなきゃ」「楽しまなきゃ」、そして「人生を充実させなきゃ」と躍起になっていました。


 しかしながら、これらの"Must"を、ゼロにするのは難しいとしても、意識して減らしていくと、生きていくのが少しずつ楽になっていきました。いつか終わる人生、わざわざ他人の用意した尺度に合わせて充実なぞ求めなくて良いのです。ただ「生きるため」に日々を送る。刹那的に欲求があれば従えば良い。究極の目的は「生きる」ことであり、それ以外のものは「生きる」という"Must"を補助する付属品に過ぎないのです。

 

 

 正しい喩えかわかりませんが、僕はこの話をするときは「かけうどん」の話をします。驚くくらい仕様もない、簡単なお話です。「かけうどん」という非常にシンプルな料理に気分によっては天ぷらを乗せたり、葱をかけたりするでしょう。「かけうどん」という枠の中でさえ収まれば認められます。もしかしたら「かけうどん」の枠自体を飛び出してしまう人もいるかもしれません。


 時にあなたのトッピングを批判する人がいるかもしれませんが、大方それは、彼の好みを押し付けてきているだけに過ぎません。あなたが一味を沢山入れるのが好きであればそれでいいし、葱が嫌いなのであればそれでいいではありませんか。


 食べ方もそうです。直ぐに食べるのが好きな人、時間を置くのが好きな人、トッピングを乗せない人もいます。美味しさを誰かと分かち合いたい人もいれば、一人で食べるのが好きな人もいます。中には自分の「かけうどん」を誰かに分け与える人もいるかもしれませんね。行儀という基本的な規範があることは忘れてはいけませんが、あくまで「かけうどん」の役割は食べられることであり、その究極的な目標をクリアさえしているのであれば、「かけうどん」はどんな「かけうどん」であって良いし、そのどの「かけうどん」も魅力に溢れているのです。

 

 

 人間は皆、自ら望んでこの世に生を受けた訳では毛頭ありません。偶然です。ただの偶然。そして死は皆に平等に訪れます。どんなに高貴な人であろうと下劣な人であろうと、サラリーマンであろうと医者であろうと弁護士であろうとフリーターであろうと、死ぬときは皆一緒、ただの骨です。偶然この世に出来上がったその骨が元はどのような人生を送っていたか、一体誰が気にするでしょうか。

 

 ドラマチックでなくても誰かのためでなくても迷惑をかけても良いのです。遅れたっていいじゃありませんか。少し時間を置いた「かけうどん」は味が染みて、それはそれなりの楽しみ方ができるというものです。