(株)アネ゙デパミ゙のブログ

くだらないことをさらにくだらなく

【その他】PictureはPictureになり得るか

絵が上手になりたい(挨拶)

 

こんにちは。アネ゙デパミ゙です。

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これは僕が書いたドラえもんの中で一番出来が良いものです。

絵がうまい人って本当にすごいと思う。

 

【目に留まった"Picture"】
 『Twitter廃人』である私は、その日もいつもと変わらずぼーっとTLを眺めていたのだが、その中にある興味深い書き込みを見つけた。一見するとただのナットとボルトの写真なのであるが、実は鉛筆のみで描かれたものであるという。私は驚愕した。なぜならば、その『写真』は、影の濃淡や鉄特有の光沢や質感に至るまで恐るべきほどに『精巧』であったからだ。
 私のように自分に絵心がないことを自覚している人間、若しくは、そもそも芸術という高尚な事物からはかけ離れた日常をなんとか送っている身からすれば、この『作品』は十二分に素晴らしいものであると思うし、それは多くのSNSのユーザーにとっても同様のことで、この『作品』には賛美の声が多く寄せられていた。
 しかしながら、同時にある疑問が頭の中に浮かんできた。それは、もし同じような構図の『写真』があったとするならば、芸術的評価対象足りえるかということである。それは同時に、写実的であるがゆえに写真の領域に入り込んだ『絵』には芸術的評価が下され得るかという疑問とも言えよう。
 今回はルネサンス以降の芸術で広まった『写実主義』に触れながら、この疑問について考察していく。

 

写実主義とは】
 『写実主義』とは字面の通り、画題について、空想を用いず如何に精巧に表現できるかに重きを置く美術、もしかするとそれは文学のことを指すこともあるかもしれないが、その主義主張の一つである。一般的にこれは18世紀後期から19世紀に発展したものであるが、ルネサンス期以降の芸術は広義的に写実主義の麺を持っており、これを始まりとする意見ももちろん存在する。
 ルネサンス以前の芸術は、例えばキリスト教の影響を受けた壁画や天井画に代表されるように、その多くは平面的であり、解説的なものであり、空想的のものであった。

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ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ『最後の晩餐』


 それがルネサンス期には、遠近法や三角図法といった現代芸術にも通ずる技術の一端が成立したため、画題を想像やロマンといったもので灰汁抜きする必要がなくなった。絵画は生活の一部を切り取るといった、ある種現代の写真に似た働きをもするようになったのだ。古代の壁画にみられる記録の役割から考えてみれば、元の働きに戻ったということもできるかもしれない。

 

写実主義と他主義の評価軸のズレ】
 私の学生時代の美術の教師は、反写実主義に立っておられたから、あまり現実的な絵は好まなかった。彼女は教科書に載っている写実的な作品に対し、「無機質」「無味乾燥」といった解説を加えていったのだ。もちろん教育者であるがゆえ、生徒に対し批判的な言動などしなかったが、彼女の教え子に対し、彼女は「まぁ素晴らしい。あなたはいい腕しているわね」といった言葉をかけていた。
 実は写実主義と反写実主義の評価軸の一端はこの発言に内包されている。
 写実主義が極まった社会においては、写実的な作品以上に『作成者』についての評価がなされることが多い。つまり、精巧であるその『作品』以上に、その作品を作り上げた『個人』に対し評価がなされることが多々あるのだ。そしてこの評価軸は、『芸術』という考え方にはあまり即していない。

 

【芸術家であるか作業人であるか】
 例えば、私たちはピカソの『作品』、ゴッホの『作品』に興味があるのであって、芸術家単体には評価を下さない。確かにアナリゼによる背景考察を行う場合はもちろんあるが、例えばルーヴルにおいて彼らがその作品を作り上げた期間であったり手法であったりのみを主題にして話を進めることはほぼありえない。短期間で量産ができるコピーが性能をほめられ、芸術的価値を持たないのと同じように、芸術的評価は文脈によって異なってしまう。
 それでは、先の『写実的』作品には芸術的な価値は無いのであろうか。そこで大事になってくるのが『にじみ』という言葉である。

 

【魂のにじみ】
 絵画の講評を拝見すると、「彼の何某がにじみ出ている」であったり、「彼の何某という感情が見て取れる」といったものは枚挙に暇がない。つまり、名画を名画足らしめているものは、その技量や人物以上に、その作品自体が持つ熱量や深みといったものであるといってよい。
 最も写実的な絵の一例として取扱説明書が挙げられるが、恐らく我々のほとんどはその写実的である絵に対し万歳三唱することなどないであろう。なぜならば、美しい図面の作成は『目的』ではなく『手段』であり、ゆえにそれらは往々にして無機質だからである。つまり、芸術的な評価がなされないものには『にじみ』が明らかに足りていないのだ。わかりにくければ『哲学または信念の乗り移り』と言い換えたほうが良いかもしれない。

 そしてこの『にじみ』が、『信念』や『哲学』だけでなく、例えば『承認欲求』や『金銭』といったものを含むかどうかは意見が分かれるところであろう。なぜならば、急速な情報技術の発展とグローバル化により、現代は文化の坩堝のような状態であるからだ。

 

【文化のあり方の多様化】

 私たちはSNSの発達により、多様な情報に触れ、それぞれの情報に付随する多様な意見を拝聴することが容易になった。同時に、今まで『芸術』に触れる機会がなかった私のような『ローカルチュア』な人間も、一閲覧人として自由に意見を述べることが出来るようになった。これまでの芸術は所謂『ハイカルチュア』な人間にしか意見が許されないような敷居の高いものとみなされがちであった。本当にその価値がわかる者のみで行われる閉鎖的な文化と思われがちだったのだ。

 勿論、本来の『芸術論』からすれば見当違いも甚だしい意見も多々見受けられるであろうが、そういった考え方を認める、若しくはその意見との徹底的な議論の結果、新たな『芸術』に昇華させるといったきっかけにもなり得るはずだ。ただし、気を付けなければならないのは、何も『作品』を必ず『評価』せよということではない。『評価』をするという選択、しないという選択を考慮なしに行うことは危険であろうということである。つまり、多様性を認めるべきだという命題に画一的になる必要はない。

 『芸術』を含む現代の文化はこのような雑踏が望ましい。なぜならば、絶対的な『正』が一つに定まっている芸術とは、これまでの芸術と相も変わらず閉鎖的かつ排他的になりやすいからだ。進化や淘汰が起こりうる状態こそ、文化本来のあり方ではなかろうか。

 

【ハイカルチュア】

 どのような作品であれ、『芸術』と言い張れるほどに『にじみ』を染み込ませたと自負があるものなのであれば、それは『芸術』と言ってよい。所詮私のような『ローカルチュア』のものの意見を『ハイカルチュア』の方が気にする必要はないのだ。